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数学について

数学について

数学とは、考え方を学ぶ教科である

計算をしたり問題を解くことで、考え方を学ぶ


 「代数」という言葉を広辞苑第6版で引いてみると、「数の代わりに文字を記号として用い、数の性質や関係を研究する数学」となっています。だから、中1の1学期の数学で「文字式」を学習するのです。文字式というのは、一般化(抽象化)することです。数字での計算は、その数字の時しか成り立たないものです。それに対し、文字式は、その文字をどんな数字に置き換えても成り立つものです。例えば、「2×3=6」は2と3の時しか成り立ちませんが、「a×b=ab」はどんな数字を代入しても成り立ちます。これが一般化です。数字で解けた問題を文字に置き換えてもう一度やり直してみる、これが一般化する練習です。「数学の教室」の「数学の学び方《2》」を参照してください。
 もう一度最初に戻ります。「算数」は、目に見える数を扱う科目です。自然数の5は「リンゴが5個ある」ことから「5」の概念は理解できます。分数の「3分の1」も「ケーキを3つに3等分する」ことから理解できます。また、「5+2=7」は「5個のリンゴがあるところに2個のリンゴを持ってきたら7個になった」という目に見える事実から理解できます。しかし、「2−5」は、どう説明しますか。「2個のリンゴから5個のリンゴを取る」と0個のリンゴしか見えません。だから、この部分は、目に見えない数を扱う「数学」の分野なんですね。例えば、中学校では「ある数を2乗すると0以上の数(0または正の数)になる」と学びますが、それではバランスがとれないんじゃないか、と考えて「2乗すると負の数」を考えるのが高校の数学ですね。「ある数を2乗すると0以上の数(0または正の数)になる」は、リンゴを持ってきて説明すると目に見えるのでわかりますが、「2乗すると負の数」は目に見えませんね。こうやって、どんどん範囲を広げていくのが、数学です。これが「数学的考え方」の「一般化」というものです。
 数学でも理科でも「バランスがとれている」ことを条件とします。たとえば、「+の電気」があるなら「−の電気」があってもいいのじゃないか、「+の電気を帯びた陽子」があるなら「−の電気を帯びた陽子」があってもいいんじゃないか、「5−2」ができるなら「2−5」もできるようにしようじゃないか、「2乗して正の数」があるなら「2乗して負の数」があってもいいんじゃないか、というように「質量保存の法則」とか「エネルギー保存の法則」のように、トータルしてプラスマイナス0になるように自然界はできているから安定している、と考えます。そうやって、学ぶ領域が広がっていくのですね。
 つまり、高校の数学には、目に見えない世界で目に見えない数を扱うことが多く出てきます。小学校では目に見えるからこそ理解できても、中学校で目に見えない数を学び始め高校ではそれが大部分になってくるから、数学で苦しむのです。小学校まで目に見える世界だけで生きてきた人、想像力が不足している人は、数学を学び始めるととたんにわからなくなるのだと考えられます。まあ、想像力が欠けていると他人の痛みというものはなかなか理解できないでしょうから、下手するとイジメや殺人につながりかねません(言い過ぎかも知れませんが…)。そういう意味でも、数学を何としてでも理解させるようにしなければ、ギスギスした人間関係になり、共同体社会でも「ジコチュー」と言われるような人物になってしまいます。だからこそ、小学校から中学校・高校にかけて、算数や数学を学ぶ意義・使い方を是が非でも理解させる努力を学校の先生にはしてもらいたいものです。ただし、社会に出てそれまでに学んだこと(目に見えてかつ体験してきたこと)がそのまま使えるとは限りません。だからこそ、それまでに学んできたことを応用する方法を学んでおかなければなりません
 「学校で学んだ数学など社会に出て役に立たない」と発言する人は、そういう物の見方ができていない人です。有名な方にもいらっしゃいますね。数学を学ぶ意味がわかっていれば、こんな発言は出てくるはずがありません。学校の授業における先生の説明の読解力がなかったのでしょうか。目に見える世界の実体験だけでなく、目に見えない想像の世界まで追究していくのが、数学を学ぶ背景にあるのです。きつい言い方ですが、数学の成績が悪い人=視野の狭い人・大局観の欠けている人・物事の表面だけを見ている人と言われる場合もあります。だから、数学の本質を捉えるようにしましょう。「本質を捉える」というのも数学的考え方の一つです。参考までに、予備校では、「数学の成績=学び方の理解度、英語・社会の成績=勉強量」とも言われます。


 このように、「数学は考え方を学ぶ学問」なのです。だから、小学校の「算数」から科目名が変更になっているのです。また、英語・数学・国語が基礎教科と言われるのは、自分の考えを伝えたり相手の言い分を聞いたりするために必要なのが国語・英語で、その考え方を学ぶのが数学で、いろいろな考え方があることを知るのが英語だからです。別の言い方をすれば、数学で学ぶ論理的考え方を用いて、考えた結果を相手に伝えるのが言語としての国語であり、英語なのです。つまり、数学は全ての教科の基本であると言っても過言ではないでしょう。その数学嫌いが増えてくれば、学力低下は必須の出来事でしょう。
 このことからわかるように、よく理系・文系と言われますが、文系でも数学は必要科目です。だから、大学入試でも文系学部では、「数学または社会」の選択となっているのが大半ですね。でも、受験する側には暗記だけで済ませられる社会の方が有利だと考えられています。そういう考え方自体が数学を学んできていない証拠です。やはり、文系学部は最低「英語・国語・数学・社会」を受験科目として義務づけてほしいと思います。同じように、数学が苦手だから文系とか、数学が得意だから理系、というものでもありません。英・国・数は、文系理系問わず必須の基礎科目であり、文系か理系かは社会が得意か理科が得意かで決定するものです。個人的には、文系・理系と分けること自体が間違っていると思いますが…。最近、学際系の学部が増えていますが、そもそも学問というのは密接に結びついているもので、すべての教科が学際のはずだと思います。


 今まで述べてきたのが「教科書に載っている知識としての数学」の考え方ですが、「数学の問題を解く」ということは、考え方そのものであるとも言えます。解けなければ考え方が間違っているし、解けても解答と違う解法ならば、論理的に正しい場合はよし、論理的に正しくない場合は間違いということになります。そういうことから、大学入試の問題でも、基本問題(易しい問題)はマーク式あるいは解答欄方式で、応用問題(難しい問題)は記述式になっているわけです。難問だから解答までたどり着けないかも知れない、だから考え方が論理的かつその表現が論理的なのかを見るために記述式なのです。そういうわけで、記述式が本当の数学の問題だと言えるでしょう。採点する大学側は、だいたい3通りぐらいの模範解答(考え方)を用意しますが、それ以外の理に適った論理的に正しい答案には配点以上の+αをつける場合もあります。大学側はそういう答案を望んでいるのです。それゆえ、大学入試の問題の中には大学で学ぶ内容も含まれています。それを誘導するために⑴⑵⑶と小問があるのです。その誘導にうまく乗ることができる人は、大学入学後も十分ついて行くことができるでしょう。その誘導の小問自体が考え方なのです。マーク式のセンター試験は、まさにそのパターン通りです。


 以上のように、中学から高校にかけて学ぶ数学は、考え方を身につけるための教科なのです。




 ここで、お願いです。実は、生徒に貸してなくなってしまった本のことですが、どなたか本の題名と著者および訳者、出版社をご存じの方がおられれば当方まで知らせてください。少し古い本です。一部分をコピーしたのが残っているだけなので、その部分をここに載せます。
P13 第1部 数学に近づく 第2章 幾何学ー家具と壁との科学 1行目〜2行目
「ことである。やってみること、作ってみること、注意してみること、並べてみること、それから始めてーものの理由を考えるべきである。」
P13 第1部 数学に近づく 第2章 幾何学ー家具と壁との科学 12行目(タイトル)「幾何に関する数種の実験」
P34 第1部 数学に近づく 第3章 ものの考え方 1行目〜2行目「ない。それ故、ユークリッドはたとえ実際に縄にある太さがあっても、事柄を過度に簡単にするためにこれを省略せよと云うのである。…」
P34 第1部 数学に近づく 第3章 ものの考え方 3行目(タイトル)「三階の数学者」
P44 第1章 数学に近づく 第4章 勉強の計画 2行目〜3行目「自分にとってどこが難しいかということを見つけ出すことができた時、困難はすでに半分征服されたと云える。…」
 これだけでは難しいかも知れませんが、ダンツィク著「科学の言葉=数」とソーヤー署「現代数学への小道」とともに高校時代に購入したものです。この2冊は岩波書店で出版されています。
 それと同じく生徒に貸してなくした本にガモフ全集があります。これは絶版になったのでしょうか。

数学的考え方《1》

数学的考え方とは…

結論を想定して、途中の過程を見出すこと


 中2で学んだ連立方程式を覚えていますか。あの文章題は、「結論を想定して結論から途中の過程を見いだす」数学的考え方の典型問題です。答がわからないから、答になるものをx, yとおいて条件式を作って解いていくんですね。別に連立方程式でなくても、中1の1次方程式の文章題も同じです。「〜をxとおく」という考え方が、ここでいう「結論を想定して結論から途中の過程を見いだす」数学的考え方です。何をxとおけばよいか、あるいはxとおくこと自体が想定されていない場合は、この数学的考え方が身についていないときですね。だから、答えがわかったとして考えていく手法をきちんと身につけていきましょう。この元になる考え方が「つるかめ算」です。「つるかめ算」自体は、ある仮定をすると矛盾を生じるところから解答を導き出す、という論理的思考を身につけるための考え方ですね。これに関しては、「数学について《4》」を参照してください。この「つるかめ算」や「仕事算」、「並木算」などは、数学的考え方を学ぶ典型的な問題です。なのに、小学校からこれらをなくして中学校から数学、というのは、いくら何でも無茶でしょう。なおかつ全国学力テストの目的が「数学的考え方を見る」ではねぇ。
 ちょっとまた「ゆとり教育」に関する文句になってしまいそうなので、話を戻します。方程式を計算で解けるかどうかが基本問題、文章題が応用問題となっているのは、文章題は数学的考え方を用いるからなのです。30年ほど前に中学生のクラスでは、文章題が解けるかどうかでクラス分けを行っていました。しかし、社会に出たら、この「結論を想定して結論から途中の過程を見いだす」数学的考え方は当たり前のように使います。


 例えば、あなたが会社で「6月30日までに鋼材500tを納入してくれ」という要求をされたとします。今日が6月10日ならば、どうしますか。6月30日という期限は結論ですね。余裕を持って6月28日には納入済みにするために、そこからさかのぼって3日前の6月25日にはもう手配済みでなければならない、では10日前の6月20日には相手との交渉が終わらなければならない、そうすれば20日前の今日には相手に連絡を入れなければならない、と逆算して行動に移すのではありませんか。これは、まさに数学的考え方ですね。例えば、作家や漫画家ならばどうでしょう。締め切り日がある以上、締め切りに合わせて仕事を進めるのは、数学的考え方です。全員がそうだとは言いませんが、締め切り日を過ぎてしまうのは、数学的考え方が欠落しているか、もしくは自分の能力以上の仕事を請け負ったか、どちらかではないでしょうか。まあ、能力以上の仕事を請け負うと締め切り日までには、間に合いませんから…。自戒を込めて。
 以前に小説家の先生が「高校で学んだ数学は社会に出てから一つの役にも立っていない」とおっしゃっていましたが、それは大きな間違いです。締め切り日から逆算して考えること自体が、数学なのですから…。


 入試もそうではありませんか。1月16,17日にセンター試験があるならば、その20日前までには何をしておかねばならないか、100日前までにはどうしなければならないか、と予定を立てるためには最も必要なことですね。だから、中学で方程式の文章題が解くことができ、受験勉強の予定が立てられという人は、会社でも仕事ができ、トップにもなれる実力を身につけていると云ってもよいでしょうね。こういう言い方はあまり好みませんが…。だから、学歴がどうのこうのという言い方がありますが、やはり学歴のある人は、こういう数学的考え方ができるんでしょうね。逆に野にあっても実力を持っている人も少なくありません。どこそこ大学出身という学歴がなくとも、数学的考え方を身につけている人もいっぱいいます。自分の意志で大学に行かずに実力を蓄えるのも一つの生き方だからです。大学全入時代の到来がすぐそこに来ていますが、そうなると「大卒=普通」となり、高学歴ではなくなります。高校生はそこのところをよく考えてみてください。


 いずれにしても、中学で数学的考え方を身につけている人は自分の夢を叶えやすいでしょう。小学校で身につけた人は大半が小学校の夢を実現するでしょうが、高校でやっと身についた人の大部分はちょっと難しいかも知れません。学校教育で数学的考え方を身につけるのは、高校が最後の砦ですね。大学では、すでに身についていることを前提とした講義・授業を行います。社会に出て仕事を覚えることで、数学的考え方を身につけることもできます。ただその場合は、周囲から何を言われても気にしない性格とか、ずっと続けるという根気が必要ですね。英語の諺の「You are never too old to learn.」ですよ。日本語の諺の「八十の手習い」と訳されることはありますが、直訳は「学ぶには年を取りすぎているということはない」ですからいつでも学び直せますが、こういう社会で生きていくためにはできるだけ早いほうがよいと思います。社会に出て苦しんでからの治療よりは、社会に出る前に苦しんで予防をする方がずっと簡単ですから。Prevention is better than cure.


 このように、社会に出て必要なことを学ぶのが数学なのです。誰も数学の先生はこんなことは言いませんが。でも、最近の生徒は説明しなければ理解できないですよ。それとも先生の方が知らなかったりして…。

数学的考え方《2》

数学的考え方とは…

物事を一般化・法則化・抽象化して考えること


 「数学について」の第1段落でも述べましたが、文字式で表すことによって、一般化します。何事も学ぶ順番は、特殊な形から一般的な形へと変化していきます。「2×3=6」から「a×b=ab」のように。では、これがどのように社会の中で使われているのでしょうか。ここでは「一般化」と言っていますが、本来は「抽象化」のことです。


 同じクラスの生徒が風邪を引くと、「A君が風邪を引いたのはA君の不注意だが、注意深いB君もCさんも引いたんだったら、クラスみんなに風邪が広まる可能性があるから、自分も気をつけよう」と考えた場合、この考え方は一般化している例ですね。A君が風邪を引いたのは特殊な状況ですが、B君もCさんもとなると、一般化して自分も、と考えています。ここでは風邪を用いましたが、地震などでも同じですね。阪神大震災の後、日本人はこぞって災害用の備蓄食料を買い求めましたが、もう今ではその危機感はないのではないでしょうか。その時には一般化しても持続することがなければ宝の持ち腐れです。
 ニュースで自動車事故の記事を読んで、だから自分にも自動車事故が起こる可能性があるから気をつけよう、これも一般化の例です。しかしながら、数学での一般化をきちんと学んでいない人は、「自分は法律を守っているから自分だけ自動車事故に遭わない」という思いこみをします。悲しいことですが、現代はこういう人が多すぎます。実は、この「 」内の文は新聞の「読者の声」欄に投稿されていました。
 一般化していれば、海外での出来事もニュースなどで見るようになるでしょう。「対岸の火事」で自分には関係ないという思いこみで、リーマンショックに注意を払った人が何人いたでしょうか。グローバル化した現在では、金融危機などもすぐに飛び火してきます。新型インフルなどでもそうですね。将来の日本を考える政治家には特に要求されることですね。「対岸の火事」ではなく、「他山の石」とする習慣を付けましょう。


 こういう言い方はあまり好きではありませんが、「物事を一般化して考える」習慣のない一般大衆は、政治に翻弄されて操られる危険性を秘めているのではないでしょうか。最近の「ゆとり教育」を見ていると、穿った見方かも知れませんが、数学をきちんと教えず社会に出すということは、操りやすい一般大衆を作り出すように思えてなりません。


 話が飛躍しましたが、高校ではいろいろな「数学的考え方」を学ぶために、大学入試の基本であるセンター試験の数学は、文字式で出題されています。ここからも、「一般化して考える=文字式で考える」ことが見て取れます。
  いずれにしても、社会に出て生きていく力を数学で学ぶのに、数学を無視して「生きる力」を教えるというのは、筋違いではありませんか、文科省の官僚の皆さん。これは私も極論だと思いますが、茶化したくなるほど教育の方向がずれて来ているようです。生きる力はどんな方法でも教えられるはずです。それとも官僚や現場の先生方が何も苦労しない豊かな生活を送ってきたから、生きる力の教え方を知らないのでしょうか。


 ただし、特殊な事例をもって一般化してはいけません。特殊は特殊です。ある特殊な事例があるときに、他にも同じ特殊な事例があることを確認した上での一般化ですよ。そのために「科学する」の「①データの収集」が必要なんです。


 私は高校の時に、「life」、「save」などの発音に関して、あることに気付きました。「life」の発音記号は「laif」で綴りの「i」の発音通り「ai」、「save」の発音記号は「seiv」で綴りの「a」の発音通り「ei」であることから一般化して考えました。語尾が「母音+子音+e」のとき、子音の前の母音の発音はアルファベット通りの発音じゃないか、と気付きました。やったぁ、誰も知らないことを自分は知っているんだぞ、と小躍りしたのもつかの間、「have」や「live」で成り立たないことに気付きました。やっぱりダメかぁ、と思っていましたが、形容詞の「live」の発音記号が「laiv」であるのを見たときに、やっぱりそうなんだ、動詞の「live」や「have」の方が例外で、原則は正しかったんだ、とわかりました。その後、大学に入ってからそれが正しいことがわかりました。今気が付きましたが、これも「科学する」の手順①〜⑥の通りですね。何年もかかりましたが。特殊と一般を見分け間違うと一般化そのものが間違いになってしまいます。そうならないためにデータをたくさん集めることが必要です。それだけのデータを収集する時間を削ってしまったのがゆとり教育です。あ、またゆとり教育に対する文句になってきたので、ここらで止めておきます。


 閑話休題。因みに数学の公式は、全て一般化された結果です。上の例でもわかるように数学でも英語でも自分なりの公式を作れるようになると、得点もグッと上がるし、社会に出ても通用するようになります。


 「抽象化」とは、「一般化」することです。「抽象化」の抽という漢字は「ぬく・ひく」という訓読みがあります。机の「引き出し」は、本来は「抽斗・抽出」と書かれていました。つまり、いろいろなデータからある特徴を抽き出して共通項目を見つけることですね。だから、数学の公式は抽象化された結果なのです。もう一つ突っ込んだ話をすると、「抽象化」=「本質を見出すこと」です。絵画などで使われる抽象画というのは、こちらの意味で使われているのですね。「抽象化」という単語を見ただけで腰の引ける生徒が多かったので、ここでは「一般化」という言葉に置き換えて説明しています。参考までに、英語では「abstract A from B」という形で「AからBを分離する・抽出する・抜粋する・要約する・抜き出す・抜き取る」と使われます。絵画で言うアブストラクトというのは、この単語です。

数学的考え方《3》

数学的考え方とは…

論理的に考えること


 論理とか論理的とよく言われますが、論理とは一体何でしょうか。広辞苑第六版では2番目の意味として「論証のすじみち」、岩波国語辞典第六版では1番目の意味として「議論の筋道・筋立て」となっています。では、「論理的」の意味は? 広辞苑第六版では2番目の意味として「論理の法則にかなっていること、りづめ」、岩波国語辞典第六版では「(正しい)論理に適っていること。理詰めに考える態度であるさま。」となっています。つまり、考える道筋が「論理」で、感情を入れずに理屈だけで考えるのを「論理」だと思ってよいと思います。「会社の論理」とかいう場合は、これが比喩的に使われ「物事の法則的なつながり」の意味になるんですね。
 それでは、なぜ「論理的に考える」ことが「数学的考え方」になるのでしょうか。「論理的に考える」=「ルールに則って定められた手順通り考える」からです。ここに感情は入りません。ルールを守るか守らないか、だけの話です。ということは、ルールを守らなければ社会ではどうなるでしょうか。いわゆる犯罪者になってしまいます。学生の間は点数を引かれるだけで済みますが、社会に出れば犯罪者になるのです。ルールはしっかり守ることを小学校の算数で身につけましょう。話を戻します。
 小学校で「掛け算・割り算は足し算・引き算よりも先に計算する」という順番、つまり手順を学ぶことになっています。全国学力テストでは、ここが不十分だと指摘されていましたね(そういうのは訓練不足の一語に尽きます)。これなどは、なぜそうしなければならないかは説明すれば長くなりますが、論理的思考の一つです。まず「定められたルールを身につけることで論理的思考の手順を学ぶ」ことから始まり、「自分で正しい論理的思考(考える道筋)ができるようにする」ことが、数学の目標です。将棋や囲碁で数学の才能が必要なのは、「理詰め」で考えなければならいからです。


 方法という意味でも、数学や理科などのように順番(手順)を大事にする方法をメソッド(method)、いろいろある中からどれを選ぶかの方をwayと英語は区別していますが、日本語ではこれに変わる言葉がありません。体系立てて順序通り考える方法(method)が理系教科には要求されます。その順序を間違えると正解にたどり着けません。だから、上に述べた「掛け算・割り算は足し算・引き算よりも先に計算する」でも「先に」という順番を表す言葉が出てきます。「数学の学び方《3》」の「科学する」にも順番があります。こういう風に順番通り考え、順番通り実行していくことが数学的考え方でもあります。


 以前に(何年前か忘れましたが)東海村だったかなぁ、放射能漏れが起こりましたが、あれなどは順序通りやるのではなく、定められた手順を飛ばして、あるいは無視して事故になったのですね。理系人間としては信じられないことをやったわけです。地震などの災害の時にも、注意書きに順番がありますね。①机など固い物の下に潜り込む、②ガスなどの火を止める、③指定された場所に避難する、と大まかに書きましたが、これにも順番があります。また、「指定された」と言っているようにルールを守ることを述べています。これらが全て正しいとはいいません。しかし、定められたルールを守る、(正しい)順番通り考える、好き・嫌いなどの感情で判断しない、これらが「論理的に考える」ことに他なりません。だから情緒教育に偏ると数学嫌いを増やしたり理数離れを引き起こすことが、文科省はなぜわからないのか、不思議でしようがありません。国語・英語のような文型教科には情緒教育が必要で、数学・理科などのような理系教科は事実と論理教育が必要です。だから、いずれにも偏らず、両方均等に教えることのできる教育政策が必要なのです。
 上で述べたように、これらを数や式という手段を使って学ぶのが数学なのです。言ってみれば、「(数や式などの)数学語を使って考え方を学ぶ」のが数学なのです。数学語である「1+2=3」は、小学校ではどう読みましたか。「1足す2は3」が小学校の算数、「1プラス2イコール3」が中学校の数学でした。これは、数学語である数式の日本語訳です。日本語でない数学語ができるのであれば、化学語である化学式を使う化学の教科や英語の教科もできるようになるはずです。だから、数学ができる人は、化学や英語もマスターするのが早いようです。何も化学や英語だけではありません。特有の記号を使うならば、すべて同じことです。お互い相関関係があるのです。これは、数理論理学ではなくもっと広い意味での記号学の分野になるのかな。


 中学から高校の数学で「論理的思考」を学びますが、学問というのは「論理」そのものなのです。「論理」を創り出したアルキメデスの時代から、数学は全ての科目の土台と言ってもよいと思います。その数学を軽視し始めたのが、1970年代後半からですね。経済的に成長すると文系志望者が増え、楽に金を稼げる職種がもてはやされますが、それを維持あるいは回復させるための余力を、数学を軽視する教育が奪ってしまったのです。


 いつも生徒には言いますが、古代は理系も文系も全て一つでした。詳しくはまた別の機会にします。それをいつからか理系・文系と分けるようになって、より専門化してきました。その弊害が出始めて、学際という言葉が強調されるようになってきましたが、言ってみれば、学問はそもそも学際の領域なのです。それを理系・文系と分けて、高校で「選択科目」として一部しか学ばないから偏った考え方の人間が生まれてくるのです。現実のところ、生徒は「選択科目」を単なる好き・嫌いで選んでいる(中学で論理をきちんと学んでいないから)のであって、自分の将来に役立てることは考えていません。文科省の官僚は、現在の高校生に大人の考え方ができていると思っているのでしょうか。海外でも、その反省に立って大学の2年生までは全ての教科・科目(リベラルアーツ)を学び、大学の3年で始めて選択制にする学校が増えてきています。日本もそうすればいいのに、最近の文科省や学校のやることといったら、生徒に媚びて生徒を甘やかすような教育課程ばかりになっていますね。何事も最初が肝心なのに…。あ、そうだ。この「壁にぶつかったら基本に戻れ、最初に戻れ」も数学的考え方の一つですね。これについては説明しませんから、じっくり考えてみてください。


 話があっちこっちと飛んでいますが、「論理的に考える」ことは、社会に出て最も必要なことですね。特に人間関係などは、感情を強調すると壊れることがあります。感情ばかりの「キモイ」とか「すぐキレル」とか「ウザイ」とかの言葉が蔓延するようになった原因は、論理をきちんと教えてこなかったからではないでしょうか。


 論理的手法にもいろいろあります。古くは「背理法」や「三段論法」から「対偶証明法」、「演繹法」、「帰納法」など広範囲にわたります。
 一つの例として、「つるかめ算」を採り上げてみましょう。「鶴と亀が全部で30匹います。足は全部で80本あります。鶴と亀はそれぞれ何匹ずついるでしょうか」という問題ですね。鶴も匹と算えるところが何とも云えませんね…。これを解くのに、まず30匹全てが亀だと考えます。そうすると、亀の足は4本ですから足の本数は120本でなくてはなりません。でも、80本しかないんですね。鶴の足は2本、亀の足は4本ですから、その差は2本です。つまり、全部が亀だとしたら120本の足があるはずなのに、80本しかない、ということは、その差40本が鶴の足の数になりますね。だから、鶴の足の数2で割って、鶴は20羽、全部で30匹だから亀は残りの10匹ということになります。これがつるかめ算の解き方ですが、これは連立方程式の加減法の考え方を表しています。全て亀だと考える、という仮定の下で120本なければならないのに80本しかない、という矛盾から解答を導く考え方です。加減法を使って計算で答えを出す手法は理解できても、つるかめ算を知らなければ加減法そのものを思いつくことはできません。「ある仮定をすると矛盾を生じるところから解答を導き出す」というのは、難しく言えば高校で学ぶ背理法の基本です。こういうパターンが小学校の授業から外されたら、中学校以降自分で新しいものを創り出す考えが生まれてくるはずがありません。想像力を創り出すのに必要なこういう教育が教育課程から外されているのです。
 特に「仕事算」ですね。ベクトルの時にその考え方が必要なのに、生徒は誰も知らないのでいちいち説明しなければなりません。「A君がある仕事をするのに2日、同じ仕事をするのにB君は3日かかります。A君とB君の2人でこの仕事をすれば何日かかるでしょう」 さあ、解いてみてください。これがベクトルの問題で、s:1−s, t:1−tとおく考え方の土台です。以前の小学校学習指導要領では、5年生の時に「1あたりの数」という単元がありましたが、今はないようですね。中学校以降は文字式で解くことはできますが、1とおくところがミソです。これがs:1−sの1になるのですが…。詳しくは、線形代数編の位置ベクトルの項目で説明します。
 他にも、台形やひし形の面積公式を何通りもの考え方で創り出すことを小学校で教えておかないと、「考える」という行為そのものが存在しなくなってしまいます。面積公式そのものを暗記するのが重要なのではなく、そこに至る考え方がいろいろ存在し、その思い付き方が重要なのです。教え子の一人が大学受験の時に「数学の問題は1行目を書くのが難しい」とよくぼやいていましたが、まさにその通りです。その1行目というのは、考え方を思いつくかどうかですから。脱ゆとり教育で台形の面積公式が復活するそうですが、果たして、その内容は…?
 今まで挙げた例のように、考え方を養う項目をゆとり教育の指導要領は奪ってきています。「創造性」と何十年も前から言われているのに、鶴亀算や仕事算、1あたりの数を単なる計算方法としか考えずに、最も脳が発達する小学校から外してしまうとは何事か、と個人的には非常に憤っているのです。考え方が柔軟で、吸収の度合いが早い小学校時代に論理的に考える習慣を付けてほしいと願っています。


 先日テレビを見ていると、ビートたけしと東大生チーム、芸能人チームが数学の問題を解く番組がありましたが、東大生チームは当たり前ですが、ビートたけしも「さすが」と思わせる場面がよく見受けられます。論理的思考があるからこそ、物事の本質を見極めることができるからこそ、コントだけではなく映画に進出しても俳優・監督をこなし海外からも評価を受けることができるのでしょう。問題の内容ではなく、出演者の考え方の道筋がよくわかるあの番組はお奨めですね。私は、今まで2回しか見たことがないので、番組名は知りませんが…。


 いずれにしても、論理的に考え、論理的に話すことで相手を説得できるようになります。会社に入って営業で回るには当然必要になりますし、新しいプロジェクトを取締役の前でプレゼンテーションするときにも必要ですし、逆に訪問販売員や詐欺犯などを撃退するにも効果がありますよ。共同体社会の中で生きていくためには、必要な論理力を身につけてください。

数学的考え方《4》

数学的考え方とは…

広い視野で多角的に考えること


 人生においても、例えば、何かの問題にぶつかったと仮定します。正面突破が非常に難しいとき、どうしますか。
 数学においてだけでなくどんな科目においても、いや仕事においても、人生においても、解答の得られない何らかの問題にぶつかることがよくあります。ここで、その問題を箱だと考えてみます。入口は裏側にあるのに正面からぶつかっても箱の中には入れません。裏に回れば入ることができるのに…。つまり正面からぶつかっても入れない場合、上から入口を捜したり、側面から入口を捜したりしなければなりません。これがいろいろな考え方が必要な理由です。このいろいろな考え方を学ぶのが数学なのです。
 自宅から東京駅まで行こうと今あなたが考えているとします。何通りの生き方がありますか。無限にあるでしょう。しかし、時間がなく急いでいる場合は、最短距離で行こうと考えるはずです。つまり、方程式(東京駅まで行く)に対して解(東京駅まで行く道筋)は何通りも存在します。でも条件によって、正解は変わります。たとえ正解でなくても適する解(正解に近い解)が存在します。つまり多角的に考えることで視野を広げることができます


 例を2つ挙げます。


 あなたは中学校の1年の1学期からどのような順番でどんな単元を学んだか順番通り言えますか。ここでは方程式と関数だけに絞って説明します。中1では1次方程式→比例・反比例、中2では連立方程式→1次関数、中3では2次方程式→2次関数というふうに、方程式→関数(グラフ)の順番で学びます。しかし、高1では、2次関数→2次方程式・2次不等式の順で学びます。これはなぜでしょうか。
 中学では、まず方程式の計算方法を学びます。そして、その計算技術を使って、関数(グラフ)の問題を解くことになります。言い換えれば、関数(グラフ)の問題を解くために、方程式の計算技術を学びます。
 しかし、高校では、計算技術だけでは解けない方程式に遭遇します。その場合、中学の時とは逆に関数のグラフを使って方程式を解く考え方を学びます。中学の時とは、逆に考えるのですね。
 これでわかるように、高1の1学期でこれだけの重要な考え方を学ぶのです。一つの道筋だけでは問題が解決しない場合、他の道筋を使って問題の解決に至ることをここで学ぶのです。車のナビがそうでしょう。ナビの指定する道筋から外れた場合、別の道を検索してくれますね。これと同じことを高1の始めに学びます。


 2つ目の例として、円の方程式を採り上げます。円の方程式は、高校では、

  • xy平面での方程式
  • ベクトル方程式
  • 媒介変数表示
  • 極座標
  • 複素平面での方程式

と、5通り学びます。もっとも、4つ目の極座標は理系のみ、5つ目の複素平面はゆとり教育では省かれていますが。つまり、文系でも上の3通り、理系でも4通り(ゆとり以前は5通り)学びます。なぜ、円という一つの図形に対して、5通りの方程式を学ぶのでしょうか。これは、5通りの物の見方・考え方を学んでいるということと同義となります。1つの物を5通りの見方をしている、と言うことですね。これが高校で多角的な考え方を学ぶ一つの例です。


 例えば、あなたが転職を考えているとします。理由は何でもかまいません。そのとき、家族のことを考えて転職するのか、収入のことを考えて転職するのか、あるいは子供の教育を考えて転職するのか、現在の会社への不満で転職するのか、などいろいろな条件が絡んできます。その時どの項目を優先度1位においてどの会社に転職すればいいのか、こういう考え方も広い視野が要求されます。そのときこそ、高校数学で学ぶ多角的な広い視野をもって問題に望めば、正解でなくても適切な解が得られます。実際、社会に出れば、解は無数にあり、正解という解はありませんが…。高校で学ぶ方程式の解には、数字の解だけではなく不定解や不能解という答えもあります。実際の社会では、不能解や不定解が多く、最適解がなかなか求められません。しかし、高校数学で数学的考え方を身に付ければ、たとえ最適解でなくとも、不正解にぶつかることはありません。授業では、こういう数学的考え方についても、実際の問題を通して説明していきます。

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